【スタッフブログ】「与える」をひっくり返す─現地のたくましさと、ともに手繰り寄せる未来

スタッフブログ

ある問いとの対峙

スラスターチャン小学校での8週間のインターンが、まもなく終わろうとしている。

教室いっぱいに広がる子どもたちの笑顔、活気あふれる日常、そして現地の先生方との協働作業、胸に刻まれた記憶はあまりにも鮮やかだ。

しかし、この報告書を前にした私の心の中には、ある巨大な問いが残り続けていた。

「なぜ、私は他者を支援するのだろうか?」

日本に生まれ育ち、カンボジアには血縁も歴史的なルーツもない私が、なぜ自らの資金と時間を投じてこの地に赴くのか。

都市部にはきらびやかなビルが立ち並び、豊かな人々も大勢いる。

その一方で、政府による構造的な不正義や不平等によって取り残された地方の田舎町がある。

このような巨大な社会構造や政治的課題を前にして、一人の外部者に過ぎない私やNGOの活動は何を意味するのか。

「ただの自己満足で気持ちよくなっているだけではないのか」というモヤモヤとした葛藤が、実習期間中絶えず脳裏から離れなかった。

しかし、8週間の実習を終えようとしている今、私はその問いに対する自分なりの答えの輪郭を捉えつつある。

その答えに辿り着くためには、開発学における2つの重要な概念——「Agency(エージェンシー/主体性)」と「Translation(トランスレーション/再解釈・翻訳)」 、そして私自身が抱いていた「かわいそう」という感情の正体を紐解いていく必要があった。

開発支援の眼差しを問い直す:AgencyとTranslation

従来の開発観において、途上国の人々はしばしば「哀れむべき被支援者」や「支援を待つだけの受動的な存在」として描かれがちであった。

しかし、批判的開発学や開発人類学が指摘するように、現地の人々は決して無力な被害者ではない。

• Agency: 与えられた厳しい環境や構造的な制限(貧困、制度の欠如など)の中でも、自らの意志で意思決定を行い、工夫し、生き抜くための主体的な力のこと。

• Translation: 外部から持ち込まれた技術、知識、制度、物資を、現地の人々がそのまま丸呑みするのではなく、自らの文化や生活の文脈、必要性に合わせて再解釈し、組み替えて活用していく過程のこと。

支援の現場において最も犯しやすい過ちは、支援を行う側が「自分たちが変化を起こしてあげている」と思い込み、現地の人々が本来持っているAgencyを不可視化してしまうことである。

「かわいそう」という感情のジレンマと、その向き合い方

過酷な環境に置かれた人々の映像や写真を目にしたとき、多くの人が抱く「かわいそう」という感情、これは決して悪いものではない。

むしろ、遠く離れた他者への共感や、「何かしたい」と思って支援の第一歩を踏み出させる原動力として機能している。

しかし、この感情には大きな毒も潜んでいる。

「かわいそう」という見方に囚われ続けると、相手を「何もできない哀れな存在」として固定化し、彼らの尊厳やAgencyを奪ってしまうからである。

ここで必要なのは、感情のアップデートと対象の分離である。

私たちは、現地の人々をかわいそうだと見下すのではなく、彼らを縛り付けている不条理な社会構造や不平等に対して憤りや痛ましさを感じるべきなのだ。

現場に生きる人々は、過酷な構造の中でもたくましく、誇り高く生きている。

彼らを「救済されるべき被害者」として見るのではなく、「構造の中で生き抜く主体者」としてリスペクトすること。

これこそが、支援に関わる外部者に求められる倫理的姿勢ではないだろうか。

現場で目撃したTranslationの実態

私はスラスターチャン小学校にて、小学4年生から6年生の合計6クラスを対象に、現地の先生とともに英語の授業を担当した。

教室には、放課後に塾へ通える比較的裕福な子もいれば、生活の苦しさの中でなんとか学校に通う子もおり、年齢も学力も多様であった。

そこで私が目撃したのは、外部から持ち込んだ学びや道具を、自分たちの文脈へと引き寄せていく現地の人々のTranslation(再解釈と活用)の姿だった。

定型文の暗唱から自己の感情の表現へ

実習当初、子どもたちに How are you? と尋ねても、全く返答ができないか、教科書通りに I am fine, thank you. と機械的に返すだけだった。

しかし、happy, tired, hungry, sleepy といった感情を表す単語を導入すると、変化が起きた。 子どもたちは単に英語を知識として覚えただけではない。

彼らはその言葉を「自らの状態や感情を外部者に伝えるためのツール」として再解釈した。

授業外の廊下や下校途中ですれ違った際、パッと How are you? と声をかけると、子どもたちは個々人のその時のリアルな気持ちHungry, Tired, Happy等を返してくれるようになった。

言葉が与えられた知識から主体的な自己表現の術へと昇華した瞬間であった。

教員のAgencyと授業のローカライズ

現地の先生との協働においても素晴らしいTranslationが見られた。

フォニックス(発音規則)やゲーム形式の活動を提案した際、先生は単に私の補助をするのではなく、自ら率先して別の生徒の発音を確認し始めた。

黒板を使ったゲームを紹介すると、先生はそれを自分の指導スタイルの中に自然に取り入れ、独自の授業用アクティビティとして消化していった。

外部の知識をただ受け入れるのではなく、自らの指導実践の中に編み込んでいく先生の姿には、教員としてのプロフェッショナリズムとAgencyが存在していたといえる。

遊びの再構築

学校で子供たちに紹介した大縄跳びのロープも、格好の例である。

最初は私たち日本人インターン生がお手本を見せて縄跳びの遊び方を教えたのだが、子どもたちはそれを瞬時に吸収した。

それ以降、私が学校に到着すると「ロープちょうだい!」「一緒にやろう!」と子どもたちが笑顔で駆け寄ってくるようになった。

さらに興味深かったのは、子どもたちがそれを単なる大縄跳びのロープとして終わらせなかったことだ。

彼らは大縄跳びをするだけでなく、自分たちの発想でロープを綱引きとして楽しんだり、地面と水平に張って走り高跳びのように飛び越えたりと、外部から与えられた道具の意味を自分たちの文脈に合わせて翻訳し、多様な遊びへと展開させていったのである。

外部者による英語指導の「意味」とは

では、私が行った英語指導には一体どのような意味があったのだろうか。

現実を見つめれば、週に数時間の英語クラスを行ったところで、カンボジアの教育格差が根本的に解決するわけではない。

政府の汚職が減るわけでも、構造的な貧困が消え去るわけでもない。

それでも、この活動には確実な意味があると断言できる。

それは、社会構造を直接変えることはできなくとも、構造の隙間にいる子どもたちの選択肢と世界を見る解像度を広げたということだ。

今まで英語に一切触れてこなかった子供たちが、How are you? に対して自分の感情を、What’s your name?に対して自分の名前を英語で相手に伝えられたということ、英語を使ったゲームにクラスメイトと参加したという体験は、彼らにとって「自分の声は届くのだ」というエンパワーメントになるはずである。

英語という新しい道具を手に入れることは、将来の選択肢をわずかでも増やし、未知の世界とつながる窓を開くことと同義である。

マクロな構造変革は一朝一夕にはいかない。

しかし、目の前の生徒・先生が持ち得る選択肢を一つでも増やし、彼らのAgencyが発揮されるためのリソースを提供すること。

これこそが、草の根の現場において外部者が果たせる真の役割なのだ。

問いへの回答:「なぜ、私は支援するのか」

冒頭の問いに戻りたい。

ルーツもなく、世界を救う力もない私が、なぜカンボジアで支援活動をするのか。

8週間の生活を通じて辿り着いた私なりの答えは、「恵まれた特権を、他者との連帯のために使い、現地の人々と深く交差することへの欲求」である。

日本という平和で裕福な国に生まれ、海外に関心を持ち、自由に移動して活動できる。

これは自責の念を持つべき罪ではなく、幸運によって与えられた特権である。

その特権を自らの消費や保身のためだけに使うのではなく、国境を超えた誰かとの連帯のために使うこと。

そして何より、インターンを終えた今、振り返ってみて強く実感していることがある。

それは、支援を通して得られる豊かさの双方向性である。

当初、私は英語を教える支援者として、現地の子どもたちや先生方に何かを「与える」立場であると思い込んでいた。

しかし、8週間が過ぎたいま胸に残っているのは、自分が与えたもの以上に、子どもたちから、先生方から、現地の人々から、そしてカンボジアという地から「与えてもらったもの」のほうが遥かに大きかったという事実である。

子どもたちのまっすぐな笑顔、言葉の壁を超えた温かい心の交流、歪な構造の中でもたくましく今を生きる人々の姿、彼らから受け取った人間的な豊かさや学びは、計り知れない。

支援という営みがもたらす究極の自己満足とは、単に良いことをして気持ちよくなること、ではない。

与える側/与えられる側という一方向の支配的関係を超えて、自分が他者に与えようと差し出した手を通して、それ以上に豊かなものを自分自身が受け取ってしまうという、人間的な交感そのものなのだ。

上から目線で救いの手を差し伸べるのではなく、自分が持っている小さなリソースを差し出し、現地の人々が持つ強さやAgencyに触れ、互いに豊かなものを与え合いながら関係性を紡いでいくという誠実な連帯の試み。

この美しい相互作用に立ち会えることこそが、私がカンボジアに赴き、支援に関わり続ける最大の理由だったのだと思う。

これからのJECSAインターン生へ

この8週間で得た学びを踏まえ、今後JECSAのインターン生として活動する同志たち、そして私自身が取り組むべき姿勢について提言したい。

「支援してあげている」という錯覚を捨て、謙虚な観察者になること

現場に入る際、最も警戒すべきは「自分たちが変化をもたらす主役だ」というおごりである。

私たちがもたらす教材や指導法は、あくまで素材に過ぎない。

主役は常に現地の子どもたちであり、先生方である。

彼らが自分たちの文脈でそれをどのようにTranslationしようとしているのかを注意深く観察し、そのAgencyを阻害しない謙虚さを持つことが不可欠だ。

構造への怒りと、目の前の人間への敬意を両立させること

現地に存在する不平等や政府によるセーフティネットの不備といった構造に対しては、批判的な眼差しを持ち続ける必要がある。

しかし、目の前で生きる人々に対しては、悲劇のヒロインや無力な被害者として接するのではなく、一人の誇り高き人間として対等な敬意を払い続けること。

このバランス感覚こそが、誠実な支援者を形作るのではないか。

微力であることを恐れず、継続的な連帯の場であり続けること

一人のインターン生ができること、数週間、数か月という短期間で変えられることは微々たるものである。

構造的暴力を前にして、無力感に苛まれる日もあるだろう。

しかし、完璧な変化を起こせないなら意味がないと諦めてはならない。

私たちが現地に赴き、コミュニケーションを重ね、選択肢の種を巻き続けること自体が、孤立を防ぎ、グローバルな連帯の糸を紡ぎ続けることになると信じている。

一見無力に見える私たちであっても、現地の人々のAgencyを信じ、自らの特権を連帯のために差し出し続ける限り、世界をほんの少しずつ、確実に良い方向へと手繰り寄せることができるはずだ。

このカンボジアの地で得たかけがえのない痛ましさと温かさを胸に、私はこれからも開発の現場と、そして自分自身のあり方と向き合い続けていきたい。

(後記)

彼は、2022年に初期の英語指導インターンとして、カンボジアに来ています。

そのときのブログ記事です。

その彼が、一回りも二回りも大きな視野を兼ね備えて、カンボジアに戻ってきて、再び英語指導の現場に立ちました。

きっと、今回の経験を通して、開発教育の分野での有用な人材として活躍されることでしょう。


最後まで、お読みいただきありがとうございました。

下記にご協力いただけたら幸いです。(まずは、💖へのクリックをお願いします。)

救われない子どもたちへのマンスリーサポート(募集中)

貧困家庭の子どもたちへのマンスリーサポートはこちら

地方部の貧しい学校をエンカレッジ(募集中)

スクールサポートのご支援はこちら

SNSによる拡散・シェアも、支援拡大のために大きな力となります。

ただいま、随時開催のスタディツアーへの参加者(定員8名)を募集中です。

下の広告や写真をワンクリックでするだけで、子供たちへの支援につながります。


にほんブログ村

今日もあなたの心が愛で満たされますように、オークン

⇩ メールアドレスをご登録いただくと、新着記事のお知らせがメールで届きますので、最新の記事をすぐにお読みいただけます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました