クメール王朝が滅亡したわけ
デビットリーン監督の「アラビアのロレンス」というアカデミー賞映画をご存じでしょうか。
この映画の中に、このようなワンシーンがあります。
ファイサル「かつてロンドンが小さな村だったころ、コルドバには街灯が灯っていた。」
ファイサル王子(アレック・ギネス)が、ロレンス(ピーター・オトゥール)に言い放った言葉です。
9世紀に栄華を誇っていたイスラム帝国のことを話しているんですね。
コルドバは、スペイン南部の都市。
つまり、彼は、イスラム帝国が、そこまで勢力を拡大していたということを、誇示したかったのですね。
8世紀~10世紀にかけて、西方のイスラム帝国に対し、東方ではクメール王朝が強大な帝国を築き上げていました。
日本では、平安時代のことです。
カンボジアを中心に強大な力を誇ったクメール帝国も16世紀には衰退していきます。
さて、皆さんは、アンコールワットに代表されるかつて栄華を誇ったこのクメール王朝がいつ頃、どのようにして滅びたのかを考えたことはありますか。
歴史を紐解いていきましょう。
16世紀にヨーロッパの東アジアへの侵略によってここが発見された当時には、もうクメール王朝の存在はアンコール近辺にはなく、首都プノンペンに人々は流れていったという事実があります。
遺跡の研究は、世界中の考古学者たちによって、行われました。
その時に、壁に描かれた観光客の落書きが、思わぬ歴史の検証に役立つこともあります。
寛永9(1632)年に、森本右近太夫一房(もりもとうこんだゆうかずふさ)という日本人が回廊の柱に墨で書き残したものが残されています。
仏教の聖地を求めて、海を渡り、ここへたどり着いたその志が偲ばれます。
日本では、徳川幕府の体制が始まったころのことです。
その頃には、すでに廃墟と化していたアンコールワット。
推測するには、15世紀前後に滅亡したのではないかというのが有力な説になります。
ただ、どのようにして滅亡したかということになると、推測になってしまいますが、いくつかの説が挙げられています。
など、様々あります。
クメール王朝は、遺跡内部に残されていた痕跡から、大勢の兵士や民を従えて栄えた巨大な王朝であったことが解明されています。
ところが、最近新たな事実が話題になっているのです。
表面からは遺跡しか見えませんが、埋もれた土砂の下に、プノンペンの広さにも匹敵する巨大な都市があったというのです。
レーザースキャンで明らかになったアンコール遺跡の地下に眠る都市国家
すごいことですね。
となると、なぜ土砂の下に埋もれてしまったのかと考えますよね。
一つの仮説として、ある時期に、中国、ラオスなどの上流から流れるメコン川の水が大氾濫して、土砂ごと巨大な都市を埋めてしまったことも考えられます。
実際にカンボジアの北方にあるプレアヴィヒア州やメコン流域では、何年かに一度は大洪水が起こっていますので、これは十分に想定できることではあります。
大勢の人々の手で修復されて、今の姿があるアンコールワット。
現在も多くの人々の手によって修復作業が続けられています。
そして、ある日突然、驚愕の事実が発見されるかもしれません。
私たちが見ているアンコールワットの姿の裏側にある歴史的事実。
我々が持っている知識は、その中のほんの一部にすぎません。
今後、予想だにしなかった事実が明らかにされていくことでしょう。
まさに、歴史への探求はロマンです。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。
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今日もあなたに素晴らしい一日が訪れますように、オークン。