ポルポト政権後のカンボジアについて考える

2024年3月25日

カンボジアと言えば、ポルポト政権時代に行われた虐殺のみがクローズアップされがちですが、今日は、その後の歴史について触れてみようと思います。

ポルポト政権時代に再教育と称して行われた、非人道的な虐殺についてはこちらの記事をお読みください。

ポルポト政権が3年8カ月の間に行ったこと

1979年1月7日は、カンボジアでは『プラムピーマカラ』(1月7日の意味)と呼ばれ、忌まわしきポルポト政権に終止符を打った日として、多くの人の記憶に残る日となっています。

ポルポト政権を崩壊に追いやったのは、ベトナム軍を引き連れてカンボジアに戻った勇敢なカンボジア兵士たちの働きによるもの。

「Strongman」The Extraordinary Life of Hun Senというフン・セン首相の自叙伝にはそのように書かれています。

フンセン首相がポルポト軍の一地方司令官としての役職についていたと聞くと驚く人も多いのですが、当時クメールルージュ組織内では、内部の反目者を大勢摘発して収容所に送っており、フンセン首相もその危険を感じ、わずか数名の兵士たちと共にベトナムへ逃亡しています。

さて、1979年1月、ポルポト軍が去った後のプノンペンで、おそるべき事実が発覚することになるのです。

進駐したベトナム軍によって暴かれたキリングフィールドでの惨劇。(現在のチュンエク村 プノンペン南方15㎞)

有無を言わさず命を絶たれた人々。

反体制分子とされたものは、ここに連れて来られて処刑されました。

人のすることとは思えない残虐な事実がこの後暴かれていくことになります。

しかし、そのポルポト政権を生み出したのも、もとは諸外国の侵略や戦争によるものとフンセン首相は語ります。

この本の中で、記述の中に特に強調されているのが、クメール・ルージュの大量殺戮の原因は米国にあるという主張です。

実際に、当時のアメリカによる爆撃の量は、太平洋戦争中に日本に投下された爆弾の量の3倍といわれています。

確かに、アメリカの爆撃により大勢の市民が犠牲になっていることから国民が反米を掲げるポルポト政権を支持したわけですから、もしも米国の爆撃が無かったら、そこまでクメールルージュは国民の支持を得られなかったのかもしれません。

ロンノル政権は、アメリカの傀儡だから国民感情として受け入れられるものではなかったというのも国民の意識としてあったことと思います。

さて、この自叙伝の中で、フンセン首相は、1979年のベトナムによるカンボジア侵攻は、解放であったと位置付けています。

これは、首相が演説のたびに繰り返し述べてきたことです。

もしもクメールルージュの暴走をベトナム軍が止めなかったら、さらに多くの犠牲者を出していたというのが彼の主張の軸となっています。

ベトナムは、その後10年間、国内に駐留しつづけたことから、時のヘンサムリン政権は国際世論には認められず、アメリカやヨーロッパ諸国、中国までも、北部に逃亡したクメールルージュらの3派連合を支持し続けたことは皮肉な話です。

フンセン首相はこの時以来、内政を批判してくる他国は信用できないと感じているのかもしれません。

実際に、CPP(カンボジア人民党)を支持する人々は、老齢層に多く、フンセン首相がベトナム軍を引き連れてきたから、虐殺に終止符が打たれたのだと言います。

反対に、反ベトナムの意識をあおり、主に若者層を中心に支持者を集めてたカンボジア救国党は、解党に追い込まれました。

 

政治には、「たら、れば」はありません。

時流に、乗った者が生き残るのです。

 

でも、実際には、ポルポト軍に力を与えたのはアメリカの傀儡ロンノル政権打倒を掲げた反米感情を持った国民であり、そのポルポトの虐殺に歯止めをかけたのは反ポルポトを掲げた一部のカンボジア人の意識であるわけです。

そう考えてみれば、国民の意識がその後の政治という一つの形を作り出していると言えるのかもしれません。

このように、誰が正しいという議論は別として、ポルポト政権後に、ヘンサムリン、チアシム、そして現フンセン首相らの果たした役割は、大きなものであったことは間違いありません。

そういえば、フンセン首相は内戦の戦闘中に銃撃を受け、視力を失っています。彼の左目が義眼だということは、多くのカンボジア人に知られています。

極秘に日本へ来日し、旧ソ連製のガラス製からプラスティック製の義眼に交換する手術を受けていますね。

日本の国会でも、2018年に行われた日本からの選挙支援に対して、ある議員から独裁政権が行われているカンボジアに支援は必要ないのではないかといった答弁がされているようです。

欧米がカンボジア支援から手を引く流れに足並みをそろえるべきだとする意見です。

私は、これに対しては、一言申し上げたいのですが、政治的問題と支援とは切り離されるべきだと考えています。

カンボジアは、今でこそ1980年代~90年代のような復興という強力な旗印のもとでの支援という色は薄くはなっていますが、未だに都市部と地方とでは貧富の差が大きいのが実情です。

今こうしているときでも、学校にいけない子供たちが野良仕事に従事している姿や病気になっても病院にも行けないで苦しんでいる姿が目に浮かぶのです。

いろんな人が、私見を含めてカンボジアの近代史を評価することがあるかもしれませんが、政治的中立の立場から、事実のみをピックアップして書き加えさせていただきました。


最後まで、お読みいただきありがとうございました。

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