【本質への切り込み】カンボジアのお金に関する慣習
カンボジア人が本音を語らない理由
私は、これまで多くのカンボジア人と接してきましたが、とりわけカンボジア人は、政治的な話題を語ろうとはしません。
この理由はただ一つ。
政治の問題は、彼らにとって非常にナーバスなことであり、場合によっては自らの立場を危うくすることにもなりかねないからです。
沈黙は金
これは、カンボジア人が良く使うことわざの一つです。
私は、NGO活動に携わっている関係上、政府を批判したり、革命的な思想を持つ立場にはありません。
でも、私の日本語の通訳たちと話すと、彼らはクメール語以外であれば、自ら政治的な話をするということです。(もちろん、私を信頼してくれてのことでしょうし、日本語で話しても周りがわからないということもあるでしょう。)
心の奥底にある不満
彼らの主張は、一つのことに集中します。
それは、ズバリ、カンボジアの格差社会のこと。
富める者はますます富み、貧しいものは貧しさから抜け出すことのできない社会。
その要因として挙げられるのが、たいてい賄賂と中国進出の2つです。
彼らの言い分では、カンボジアの官僚たちは、お金をあらゆる方法で集め、それを上納することで出世をしていく。そして、既得権益を守り通していく。
大学への入学も、刑事事件のもみ消しも、お金で解決できるのが今のカンボジアだと不正を主張します。
つまり、お金をちらつかせることで、正義が通らなくなることに大いなる不満をつのらせているのです。
彼らのカンボジアに対する愛国心は、並々ならぬものがあります。この国の将来の姿を心から案じているのです。おそらく、現在の日本の若者には、そこまでの愛国心はないかもしれません。
2013年の総選挙のときは、このイデオロギーが国民の行動となって、爆発寸前にまで高まったことは、皆さんがご存じのとおりです。
あるNGO団体での驚愕の出来事
彼らは、この格差社会を生み出しているのは、裏金の問題があるからだと主張します。
しかし、私は、これを政治の世界に限ったことではなく、カンボジア社会全体に根付いている問題だろうと考えています。
実は、私が以前所属していたNGO団体で、教育フォーラムを開催するときに、カンボジア人の参加者を集めるのに、一人当たり10$の参加手当を出すと告知されました。
私「そういうのってありなんですか?」
NGO担当者「郷に入らば郷に従えですよ。」
当然、私は、参加者から料金を徴収することはあっても、手当てをあげるなんてことはあり得ないと思ったのですが、そうしないとカンボジアの人々は参加しないからというのがこのNGO団体の主張でした。
してあげることに対してコミッションをもらうのは当然だというのは、実は、カンボジアの人々の一般的な考え方。
書類の申請のために内務省に行ったときに、親切に手続きについて説明をしてくれるのですが、後で連絡するからとだけ言って電話番号のやり取りをして帰ると、後に届いたメッセージは、○○○$かかるというものでした。
帰り間際に、この管理職が私に言った言葉を思い出します。
「君もカンボジアの習慣を理解しなければならない。」
そう、習慣なんです。
お金で動くというのは、何も政治だけの問題ではなく、社会全体の悪しき慣習にあるのです。
実際に、カンボジアでは、どんな職業の人でも、コミッション(手数料)と言うのは存在しますし、それが潤滑油のようになって、お互いの関係が成り立っています。
人から何かしてもらって、お金を払わないというのは、この慣習に逆らう行為になるんですね。
もちろん、政治的に高い立場になるほど、料金も跳ね上がりますので、一般の人々が不平を言う場合には、そういった高額なやり取りへの非難中傷であり、自分ができないことへのやっかみではないかとさえ思えてくるのです。
自分もやっているが小さな額だから・・・という論理には、意味がありません。
つまり、額が大きい小さいの問題にとどまらない本質的な問題点がそこにあると思うのです。
クラスター発生から学ぶべきこと
例えば、日本でも政治家が献金問題や不倫問題を起こそうものなら、国民からつるし上げられる結果になります。
存在が人々の目につきやすいだけに、マスコミの格好の材料になりがちですが、一般の人も多かれ少なかれそれに類することはしているでしょう。
我々の生活の中にも、日常的にあることです。
献金や不倫が有名人や政治家の問題だと片づけているうちは、日本国民にも本質が見えていないということにもなりますね。(いや、見ている賢者もいると信じたいです。)
2月20日付のプノンペンでのクラスター発生にも、これに類するお金のやり取りがあったと報道されていました。
Koh Penhのホテルに14日間のステイを義務付けられたコロナ陽性の外国人が、お金にモノを言わせて外出したことから、これほどまでの騒動になったという事実。
たらればを今さら語ったところでどうにもなりませんが、もしも警備員が職務に忠実だったならば、どんなにお金を積まれても外出を見逃すことはなかったということです。
現在、この事案は裁判沙汰になっているようですが、この問題をより大きな枠組みで捉える必要があるだろうということです。
今、カンボジア社会全体が、このお金に関する慣習を見直すべき時が確実に来ているように思います。
いつやるの? 今でしょ。
の通りです。
たった一人の行いが国を変えた例
日本でも一時話題になったある国の大統領。
ご存じですか。
南米の小国ウルグアイの第40代元大統領。
彼は、世界で最も貧しい大統領として有名です。
この国連での演説は、多くの人々に驚きと感動を与えました。
じっくりとご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=m_v7zxdmpbw
日本人にもメッセージを送っています。
https://www.asahi.com/articles/ASJDF5T1NJDFUEHF00M.html
彼は、収入の9割を貧しい人々に分け与え、自らは1980年代製の30万円ほどのフォルクスワーゲンの中古車に乗り続けていた。
富と権力を手にする大統領らしからぬ彼の行動が、世界中で注目されたのです。
「10年もつ歯ブラシは作らないでしょう。」と彼は企業の在り方に忠告を与えます。
現代の消費社会に警鐘を与え、本当の幸せとは、豊かさとは何かを我々に問いかけます。
本当の幸せとは・・・
誰もがお金が欲しい。
でも、お金では決して動かないもの。
絶対的正義、司法、人の命、愛、幸せ・・・。
お金は確かにいろんなものが手に入りますし、少なくとも自由を作り出します。
でも、お金で本当の幸せが得られるかは別の問題。
カンボジア人の夢は、
家・車・子ども(家族)
です。
私も、これまでに3つとも手に入れてきましたので、今わかるのですが、
家を手に入れた後どう活用するのか
その車で何をするのか
子どもをどう育てるのか
それが持つことよりも大事だということ。
すべて手にしたら、それでおしまいと言うものではありません。
カンボジア人は、ほとんどが仏教徒であるがゆえに、慈悲の心を持ち、貧しき人々にも親切にする心配りができる国民性があります。
お金がなくても、心を豊かに保つ仏の教えも身に付けています。
しかし、これも慣習になりますが、カンボジア人には、日本人には理解しがたい面もあります。
それは、
外面を気にするあまり見栄
が働くことです。
結婚式が良い例です。わたしから見ればかなり無駄だと思うのですが、贅の限りを尽くして、相当な経費をかけて執り行われます。そこには、日本的な「もったいない」思考が入る余地がありません。
そして、体面を気にするから、車の車種や家の大きさで人が判断されやすいです。
人の内面までも、持ち物で判断されてはたまったものではありません。
子どもたちの未来のためにどんな社会を残すか
私は、この国とカンボジアの人々を愛するからこそ、未来の子どもたちのために正しくあるべき社会を築き受け渡していく必要があると思っています。
20年後に、子どもたちが夢を描き、仕事に就き、社会に役に立つことをやれていたらいいなあと心から思います。もちろん、日本社会にも同様の想いを持っています。
ホセムヒカ氏は、過去の賢人の言葉を引用して言います。
カンボジアの人々も、一通りモノを手に入れた後で、初めて実感できることなのかもしれません。
国民が本当の幸せを実現できる国になってほしいと願うばかりです。
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