1975年4月17日 ポルポト政権が生み出した負の遺産の始まりの日
この記事は、ポルポト政権が生まれた背景の続きとしてお読みください。
フランス統治時代のプノンペン
1970年代、プノンペンは、当時「東洋の真珠」と呼ばれ、アジアでも指折りの大都市でした。
西洋風の建物におしゃれな街並み。
市場には人が集まって、賑わいを見せていました。
都会のプノンペンでは、様々な生活物資が手に入りました。
ここに住めば、貧しい地方の暮らしとは違った、豊かな生活が送れると人々は信じていました。
また、地方で爆撃を受けていようとも、ここでは平和な生活が送れると思っていました。
首都プノンペン陥落
アメリカ撤退後、ロンノル軍に対抗する勢力が増す中、1975年4月17日、ポルポトが率いるカンプチア民族統一戦線が首都プノンペンを制圧し、ロンノル政権はこの日を持って、完全に崩壊しました。
プノンペンに入るクメールルージュ軍兵士たち。
プノンペンの人々は、これで平和が取り戻せたと思い、彼らを大歓迎しました。
北京に滞在していたシアヌークがプノンペン王宮に戻り、元の王政国家の復活を市民も喜んだのです。
しかし、ロンノル政権に関係していた人々を初め、その他多くの人々の期待を裏切る出来事がこの後起こることになるのです。
ポルポトの思想
ポルポト率いるクメールルージュは、原子共産主義という思想を掲げていました。
それを人々が理解するのは、ポルポト政権が行ったことの数々を見てからのことです。
いや、それを見ずに命を落としていった人も相当数いることでしょう。
ポルポト軍は、まず、投降したロンノル軍兵士を処刑しました。
そして、役所、警察署、消防署、図書館、博物館、娯楽施設、学校、寺院など、あらゆる公共施設を占拠し、公務員、会社員、自営業者、教師、医師、僧侶など、農業従事者以外のすべての知識階級に当たる人々を連行しました。
その多くは、収容され、拷問にかけられた上、処刑されたと言います。
プノンペンの政府機関をはじめとして、公共施設、銀行、学校、寺院など・・・、多くの建物が占拠され、破壊されました。
プノンペンは、3日間で人の気配が無くなったと言われています。
カンボジアの貨幣も、この日から紙くずになりました。
原子共産主義では、国民は国家の元で平等であるという考え方なので、個人資産を持つことは認められないのです。