カンボジアで施しを与えることの是非
以前、某ボランティアNPOのサイトに、
「カンボジアでは、子供たちに決してお金を与えないでください。」
と書いてあったのを憶えています。
その理由は、
「それを行っても、子どもたちは豊かにならないし、もらえることに味をしめて、ますます学校に行かなくなります。」
というものでした。
わたしは、元々、人にものを与えることへの心のブロック(ものを与えられない心)を抱えていましたので、この言葉は自分にとってはたいへん都合がいいことであり、納得して受け入れていました。
そして、私は、この国に来て、地雷で足を失っている方、国からの生活保証の全くない高齢者、明らかに極貧な子どもたちに大勢出会いました。
初めは、そういう人たちの前を、あのNPOの言葉通り、知らぬふりをして通り過ぎていました。
自分は正しいことをしていると、さも言わんばかりな態度であったと思います。
でも、そのうち、それは、人としてとても恥ずべきことではないかと思うようになったのです。
実際に生活していると、人々が、立ちどまって、小札を渡しているのを見かけます。
それも、ごく自然に行うのです。
感心するのは、10代から20代くらいの若い世代の人たちも、そうするのです。
私も、初めは恐る恐るでしたが、ある時、それを実行してみました。
ほんの500リエル(15円)円ほどです。
そしたら、本当に心が気持ちよかったのです。
私にとって、このお金は平気で飲み食いに使ってしまう程度の金額です。
その一部を、真に困っている人に施す。
特別なことでもなんでもありません。
自然な行いだと、実感しました。
これは、仏教でいう慈悲の心なのでしょうか。
私の場合は、豊かなものが貧しいものに分け与えるというようなそんなレベルではありません。
私もたいして持っていないけど、その行為から得られる喜びの方が大きいことがはっきりとわかったのです。
先のNGOの言わんとすることは、正論のようでいて、実際の現場ではそぐわないことだと今でははっきりと申し上げることができます。
組織サイドの傲慢な言葉であり、お金に困ることはない日本人が上から目線で言っている言葉に過ぎないと思います。
また、別の視点で、こんなことをよく感じます。
日本はサービス大国であるがゆえに、日本の人々は自らがもらい受けるサービスにとてもこだわります。
「こうあるべきだ。」
「それが当たり前だ。」
「普通、そうなっているでしょ。」
旅行に来た日本の方々が、まず口にする言葉です。
ホテルの設備に不満を持ち、後からWEBに不満を書き込みする日本人が意外に多いということもご存知でしょうか。
日本をこの国の中に持ち込んできても、決してうまくいきません。
この国に来たら、まずは、それを捨て去ることをお勧めします。
そしたら、新しい何かにきっと気づけますよ。
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今日もあなたに素晴らしい一日が訪れますように、オークン。