【2026年4月新規オープン】Cambodian Mine Action Cente

カンボジアの歴史

CMACとは、「カンボジア地雷対策センター(Cambodian Mine Action Centre)」の略称で、カンボジアにおける地雷や不発弾の除去、関連する教育活動を担う政府機関です。

設立の経緯と歴史

UNTACによる設立: CMACは、1992年に国連カンボジア暫定機構(UNTAC)の支援を受けて、地雷除去の訓練施設として設立されました。

カンボジア政府の独立機関へ: UNTACが撤収した1993年、CMACはカンボジア政府の独立機関となりました。その後、首相直轄の政府機関として、長年にわたる内戦で残された地雷や不発弾の問題解決に取り組んでいます。

主な活動内容

CMACは、人道的・開発事業のための地雷対策を目的として、以下の4つの主要な活動を展開しています。

①地雷・不発弾除去

地雷や不発弾が埋設された地域を特定し、安全に除去する作業を主に行っています。

②地雷リスク教育

地域住民に対し、地雷や不発弾の危険性を伝える啓発活動を行っています。これにより、被害を未然に防ぐことを目指しています。

③技術開発

地雷探知技術や除去作業の効率化を図るための研究開発を行っています。日本のJICA(国際協力機構)も、技術協力プロジェクトを通じてCMACを支援しています。

④海外への技術支援

カンボジアでの経験とノウハウを活かし、地雷問題に直面する他の国々への技術支援や訓練も行っています。

CMACの拠点

CMACの本部は首都プノンペンに置かれており、各地に地雷除去支部事務所や研修施設、中央整備工場などを有しています。

シェムリアップには研修・研究開発センターが設置されています。シェムリアップ市内から26㎞です。

長年の活動により、カンボジアの地雷被害者数はピーク時に比べ大幅に減少していますが、未だに多くの地雷や不発弾が残されており、CMACの活動はカンボジアの平和と安全、そして経済発展に不可欠なものとなっています。

CMAC地雷博物館プレオープン見学

今回、このCMACを見学訪問してきましたので、そのレポートをご紹介いたします。

実は、まだオープン前の状態ですが、日本人ということで、特別にご案内いただきました。

博物館は大きく3つの建屋に分けられています。

3番の円形ドーム内は、日本のODA支援により、現在建築が進められています。

今回、4番と5番の建物内部をガイド付きでご案内いただきました。

流ちょうな英語と日本語で解説してくださるパディさんです。日本への渡航経験もお持ちの方です。

この建物は、CMACが建設したもので、その独特なフォルムはナーガをモチーフとしたものです。

許可をいただいたので、内部をパシャパシャと写真を撮ってまいりました。

カンボジアに投下された爆弾と、地雷原の分布を示した国土地図です。

また、除去された地雷の数々が展示されています。

2段、3段と積まれた対戦車用の地雷。破壊力を増す埋設の仕方が紹介されています。

CMACの活動は、地雷除去だけではありません。

ベトナム戦争時に、米軍がカンボジアに投下した爆弾は、太平洋戦争時に日本に投下された爆弾の量の3倍と言われています。

とりわけ、ナパーム弾やクラスター爆弾は、広域にわたり人民を殺傷する兵器です。

その残骸(不発弾)は、未だにカンボジア全土に取り残されているんです。

私が予想するには、カンボジアの国土は湿地帯や沼地が多いので、不発のまま地中に埋まった数が相当あると思うのです。

田んぼや畑、森の中、川の底、着火すれば、瞬時に爆発が起こり得ます。

ここで、一つ、皆さんの既成概念を破るお話をしてくださいました。

よく映画の中で、足でカチッと地雷を踏んで、あたふたしているシーンを見ることでしょう。

しかし、それは映画だけの世界のこと。

実際は、踏んだ瞬間爆発を起こします。

もう一つ、沖縄にCMAC隊員たちが地元の高校生に向けてプレゼンテーションを行ったときに、ある高校生が心に刺さる質問をしたそうです。

「隊員さんたちは、命がけで仕事をしているけど、いったいいくらの給料をもらっているのですか?」

というものです。

それに対して、パディさんは、

「あなたは、月10,000$の給料でこの仕事をやろうと思いますか?」

と聞き返したそうです。

隊員さんたちも、かなりの死傷者を出しています。

地雷所除去作業中に亡くなった隊員さんを紹介しています。

では、なぜそこまでして、この仕事に就くのでしょうか?

それに対しても、パディさんは、

「それはこの国に、本当の平和を取り戻したいからです。」

と、即答されました。

実際に、祖国の復興を願う女性の隊員さんたちも数多く活動しています。

おびただしい数の被害者名簿。

館内では、クラスター爆弾と言われる兵器を、リアリティあふれる展示で再現。

恐ろしい無差別な殺傷兵器です。

カンボジアに対するB-52による秘密爆撃は1969年3月に始まり、1973年まで続きました。

この期間中に行われた総出撃数は23万回を超え、投下された爆弾の総量は275万トン以上に達しました。

主要な出撃拠点はタイのウタパオ空軍基地(U-Tapao Air Base)でした。

タイが、この時代に米軍に空軍基地を提供していたことを、私は初めて知りました。

当時のカンボジアは公式には中立国であり、米軍による爆撃は国際法上の問題がありました。

そのため、米軍は作戦を極秘に進め、任務報告書を偽装するなどの手法で、世論や議会から隠蔽していました。

爆撃作戦には多数のB-52が投入されました。1969年3月から1970年5月までの間だけで、3,875回もの出撃が記録されています。

回収されるクラスター爆弾の残骸。ロケット外装には、US-AIRFORCEと刻印がされています。

カンボジアのクメールルージュ統治時代に起きた殺戮は、一部の取り出しの歴史に過ぎません。

詳しく説明してくださるパディさんは、シェムリアップに住む家族を持つ父親です。

彼は、解説の中で、今年起きたカンボジアとタイの紛争についても、心を痛めていると語っています。

カンボジア人は、決して戦争を望んでいないと・・・。

それは、上記の20世紀後半に起きたカンボジアでの戦争下での悲惨な出来事を人々は、知っているからです。

それを、このレポートと共に皆様にお伝えしたいと思う次第です。

3つ目の写真は、1998年12月29日12時に完全に内戦が終結したことを示しています。

展示されている銃口は、すべて曲げられています。

彼らが、争いを放棄していることを示すものです。

最後に、日本軍が残したものとして、1942年~45年までの3年間占領下に日本軍が残していったものが展示されていました。

今後も完全な平和を取り戻すための活動は続きます。

素直な思いを交えて、2時間にわたり真摯に解説してくださいましたパディさんに心から感謝いたします。

今回の訪問で得たことを、日本の人々にもお伝えしますとお約束をしました。

確かに、プノンペンに来れば、発展を遂げたアーバンな雰囲気に浸ることができます。

しかし、その陰で人々が今も貧困や苦悩にあえいで暮らしていることを忘れてはなりません。

また、平和を願って地雷除去に当たる隊員さんたちの命がけの活動を心に刻む必要があります。

最後に、現在の戦争をあおるような日本の報道やそれに同調するナショナリズムにも、私は憂いを感じます。

軍事による威圧に屈しないはわかりますが、日本が軍拡に走った先に必ず起こりうる未来の子孫の不幸が目に見えるのです。

台湾有事が話題になっている今の日本の若者たちに、戦争の悲惨さを伝えるためにもこの記事を書きました。

平和のために、どんなアクションを起こすべきか。どんなアクションをしないべきなのか。

戦後80年の日本が、重大な岐路に立たされていることは、間違いありません。

本記事への感想をお寄せいただけましたら幸いです。

なお、このCMAC地雷博物館は、2026年4月にオープンの予定です。

入館料も生じますが、半日ほど世界平和を願うカンボジア人の魂に触れていただく場所として、今後、多くの訪問者が訪れることでしょう。


最後まで、お読みいただきありがとうございました。

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