【忌まわしき虐殺の時代】ポルポト政権が生まれた背景
カンボジアの歴史を語るとき、誰もが大虐殺が行われたポルポト時代だけに目が向きがちですが、時代の流れには必ずその時の世界情勢が関わっています。
そこで、ポルポト政権が台頭した理由を時代背景を含めて解説したいと思います。
第二次世界大戦後のイデオロギー
まず、ポルポト政権の起こりの要因には、米ソによる東西冷戦が挙げられます。
第二次世界大戦後の世界は、社会主義圏と自由主義圏とに二極化されました。
アメリカでは、1950年代に共産主義の拡大を怖れるドミノ理論が唱えられるようになります。
共産主義がドミノ倒しのように広がっていく現象。
それは、ソ連を端に発し、北朝鮮、中国、ベトナムと連鎖して、社会共産主義イデオロギーが南下してくること。
ニクソン政権は、これを食い止める方策を打ち出します。
フィリピンを統治していたアメリカには、このドミノ現象の南下を押しとどめる必要があったのです。
ニクソン大統領とそのブレインであったキッシンジャー国務長官。
当然のごとく、地理的に米ソの中間に位置する東アジア諸国が、その戦場となりました。
こうして、朝鮮戦争、インドシナ紛争、ベトナム戦争で、現地の人々が政治イデオロギーの渦に巻き込まれることになりました。
大国が背後に存在していた争い。
ベトナム戦争は、まさに代理戦争。
ソ連が支援する北ベトナム軍。リーダーは、ホーチミン。
アメリカが支援する南ベトナム軍。
ベトナムは、朝鮮半島同様、同じ民族が2つに分断された戦いになりました。
ただし、この戦争はベトナムの国内事情もあり、少し複雑でした。
南ベトナムの中にもアメリカの侵略に反対する人々がいたのです。
彼らは南ベトナム解放民族戦線(俗称ベトコン)を結成し、アメリカ軍に対抗しました。
ベトナム戦争は、まさにイデオロギーの戦い。
混とんとした中、戦争は終わりなき争いに入っていきます。
兵器や物量で勝るアメリカ軍。
地の利を生かしたゲリラ戦で対抗する北ベトナム軍とベトコン。
アメリカ軍は、ベトコンのゲリラ作戦に手を焼き、ジャングルを焼き払うために大量の枯葉剤を散布したり、数々の虐殺を行ったりしました。
それらは、戦後、証言者たちが真実を語ったことによって世界に知れ渡ることとなりました。
ベトちゃんドクちゃんは、日本でも手術を行い、話題になりました。
これは、彼らの母親が、枯葉剤の含まれた井戸水を飲んでいたことによる悲劇でした。
ホーチミンルート
さて、このベトナム戦争中に、北ベトナム軍は戦争物資を南ベトナムのベトコン軍兵士たちに供給するため、ひそかにラオスやカンボジア国内に輸送ルートを作りました。
これが、ホーチミンルートと言われている輸送路です。
勝手に隣国内を通るルートを利用して物資を輸送できたのには、2つの理由がありました。
それは、
当時のカンボジアの人々には、自国内を空爆するアメリカへの憎しみがありました。
大勢のカンボジア人が自分たちには関わりのない爆撃で犠牲になっているのですから、当然のことです。
こうして、戦火はカンボジア国内にまで飛び火していきます。
北ベトナム軍は、ラオスとカンボジア国内のこのルートを用いて、小型兵器や弾薬をベトコンに送り続けました。
シアヌーク政権は、米ソどちらとも手をつなごうとする中立の立場から、この物資の輸送を黙認していました。