カンボジアの将来はどうなっていくのか
カンボジアの10年後は、どうなっているのか。
こんなことを最近よく考えます。
今回は、お若い方向けに「戦争・歴史・政治」の話題に始まり、国の将来を見据えての考えを述べさせていただきます。
「政治的中立を保つ」という観点から、批判する内容ではなく、各国の平和的発展を願う立場から述べていることをご理解の上でお読みいただけたら幸いです。
私の母は、旧満州国生まれです。
祖父は今でいう警正という立場で、当時満州国のある地方の警察署長をしていました。
1945年、敗戦色濃厚になると、祖父は妻と幼い子供たちを先に日本へ帰国させました。
その幼い兄弟姉妹の一人が、私の母でした。
旧満州国では、多くの日本人が戦争末期に現地で亡くなっていますので、母が帰国できたことで、私は、ある意味、命を授かったと思っています。
祖父は、ソ連軍に抑留され、シベリアで強制労働に就いていましたが、1956年に釈放されて帰国しました。
ここで、一つ、カンボジアとも関わる見逃せない事実があります。
それは、
です。
特に祖父は、社会的に影響力のある立場にいましたので、旧ソ連からみっちりと思想教育を叩き込まれたのかもしれません。
その結果、祖父は、共産党支持者になり、旧日本軍の蛮行を非難し、戦中に行った自らの行いを懺悔する寄稿を書き続けました。
たたでは帰さない・・・、ソ連の抜かりなさが見え隠れするのですが、政治とはこういうものです。
ちょっと怖い話ですが、旧ソ連は、こうして日本を思想的にコントロールしようとしていたのです。
思想が政治を動かす。
これは、歴史が証明しています。
ポルポトも、ソ連のスターリン主義を敬愛していた毛沢東思想の実現を目指しました。
1989年、ソ連邦の崩壊により、東西の冷戦は、終焉を迎えたことになってはいますが、今もなお、カンボジアには当時の面影が残ります。
プノンペンには、現在もなお、
毛沢東通り
ハノイ・ホーチミン通り
ロシアン通り
クメール・ソビエト病院
のような、共産主義を連想させる名前が身近に残っています。