カンボジアを支援する理由
私がカンボジアを支援する3つの理由
なぜ、カンボジアへ支援するのかと尋ねられますが、私には3つの理由があります。
幼少時の夢見
私は不思議なことに、幼少のころ、真っ黒に風化した石造りの建物が何度も夢見に出てきました。その建物にはいくつかの塔が天に向かってそびえ立っているのです。そして、周りは、ツタの垂れ下がる密林に覆われています。あたりは、湿っていて、苔むした匂いがします。そして、数多くの仏像が私に向かって微笑んでいるのです。
これが、アンコールワットであり、バイヨンであり、タプロームであることがわかったのは、私がはじめてこの地を訪れた時でした。私は、それらを目にしたとき、瞬時に「これだったんだ。」と感じ取りました。それは、ずっともやもやとしていた霧がさっと晴れたような感覚でした。
この地に立って、ここに自分の使命があることを確信したのです。
ドイツでの生活経験
私は、元々教師になる前から、海外で働きたいという思いを持っていました。それが実現できたのは、教師になって10年経った時でした。文部省から任命を受け、3年間、ドイツの学校に勤務することになったのです。誰もが、気楽に海外旅行を楽しむバブル経済の真っただ中で、自分は観光ではなく使命を持って海外に行きたいとずっと願っていたので、海外渡航はこの時が初めてでした。
そこで得た経験は、とても大きなものでした。言葉環境、生活習慣の違い、現地の方々との文化交流、貴重な体験をしました。生涯を通して付き合っていける親友もできました。
外国で暮らすと、現地の人々のものの見方や考え方などが本質的に見えてきます。その中で、彼らが潜在的に持つ差別意識に、大きな問題意識を持ちました。
ヨーロッパでは、アジアの国々をとかく見下しがちです。日本人には、それほどでもないのですが、東南アジア諸国の人々へ向けられる目には冷ややかなものがあります。
私は、同じ人間同士が国籍が違うというだけで、このような偏見を持って見てしまうことにずっと疑問を抱いていました。
これは、後に私のアジア地域への強いボランティアマインドに発展することになりました。
カンボジア人女性ポンナレットさんとの出会い
最後に、カンボジア人女性のポンナレットさんとの出会いがあります。
上の写真は、彼女が6才くらいの時にまだ家族と共に幸せに暮らしていた時のものです。
1975年4月にポルポト派が首都プノンペンを制圧すると、この都市はゴーストタウンになりました。知識人は次々と捉えられ、彼女たちは家族ともども数百キロメートル離れたコンポントムという村まで歩いて移動させられ、そこで数年間強制労働を強いられました。その過酷な生活の中で、彼女は母親と6人の兄弟姉妹を次々に亡くされました。
最後に、一人ぼっちになった瞬間、気力や体力を失い、気がついたらタイ国境の難民キャンプにいたそうです。
彼女は、日本に国費留学していたお姉さんのはたらきかけもあって、1979年に運よく難民として来日しました。
日本の学校を努力して卒業し、今では日本全国で講演活動を行いながら、ご自分の国で起きた忌まわしい出来事を人々に語り伝えています。
過酷を極めたカンボジアでの実体験を、今でこそ話す彼女ですが、初めは、こうした経験を語ることは「母国の恥」と考えていたと振り返ります。
現在は、
「私のように生き延びた人たちこそが、当時の内戦の事実を語っていくべきなんです。」
「世界中の子どもたちを守らなければならない。わたしたちが経験したような思いを、子どもたちに味わわせてはいけない。」
と強く聴衆に語り掛けます。
私は、こうした彼女の姿勢にとても共感します。
歴史を正しく認識し、このような政権が誕生した事実と原因を当時の世界情勢とも抱き合わせて、きちんと理解することが大切です。
そして、そこから、世界平和への思いを再認識するのです。
争い事を起こすのも人間なら、平和を選択できるのも人間なのです。
祖国の負の歴史を語り続ける彼女への同胞からの風当たりは強いのですが、それにも負けずに信念を貫き通す姿勢を、私は心から尊敬しています。
自分の支援活動へのエネルギーが湧き上がった理由は、彼女の存在があったからです。
「肉親や家族を殺された悲しみはずっと残りますが、恨みは捨てました。憎しみからは何も生まれません。」
この言葉が、私の心に響いています。
「40年たった今、無事に生き延びることができ、平和な日本で暮らし、すてきな娘にも恵まれました。改めて、生きることはすてきなことだと実感しています。」
と彼女は、講演をこの言葉で締めくくります。
その功績が認められ、今年、女性文化賞を受賞しました。
ぜひ、多くの方に彼女の存在とその書籍を読んでいただければと思います。
ちなみに彼女のお姉さんペン・セタリンさんは、日本では最も有名なカンボジア人と言われています。
日本で初めて、カンボジア―日本語の辞書を監修された方です。
フンセン首相が来日した時には、側近の通訳として活躍されています。
我々が目指している支援の形
現在の自分の姿を、若いころには想像もしていませんでした。
様々な人々や出来事の巡り合わせを経て、私は今カンボジアの地に立っています。
これは、一言でいえば、自らの運命と言えるのかもしれません。
実際に、現地の人々と接し、暮らしを肌で感じ、カンボジアの地方の教育現場を自分の目で見続けることで、真の支援の必要性を心に刻み続けることができます。
ある時、日本から送られてきた使い古しの鍵盤ハーモニカが、段ボール箱に詰められたまま学校の職員室の隅に山積みされているのを見ました。
不要なものを与えることが支援にはならないことを知ってください。
そして、単にものを与えるだけの支援では、本当の支援にはなり得ないということを理解してください。
「魚を与えるのではなく、釣り方を教える」
これは、教育アドバイザーの活動の時のテーマでした。
単にものを与える支援ではなく、教育の質的な支援活動を行ってきたことが、今の私に大いに役に立っています。
そして、その時の教員養成大学やカンボジア教育省とのつながりも私たちの活動の大きな支えになっています。
質的な支援は無形なものですが、永遠に心に刻まれます。
これが、我々の目指す支援の形です。
でも、支援は、決して一人の力でできるものではありません。
小さな力でも束ねることで大きな力に変えていける。
そのためにも、皆様方に活動を積極的に伝え続けなければなりません。
そして、一人でも多くの賛同者・支援者が生まれることを願っています。
海外支援にある4つの背景
さて、海外支援活動に関心のある皆さんにお尋ねします。
国内ではなく、海外に支援する意味を考えたことはありますか。
確かに、日本にも生活困窮者はたくさんいますし、支援が必要とされる孤児たち、貧困家庭に育つ子どもたち、ホームレスの人々もいます。
私は、海外支援を考えるときに以下の4つのことを思い浮かべます。
1 日本の戦後も各国からの支援を受けていたという事実
日本の敗戦後、1945年から10年間ほどは、国内は戦災者、浮浪者、孤児であふれかえり、混乱を極めた時代でした。物資や食料が極端に不足し、闇市が流行り、窃盗や強盗が多発し、国民の生活は混乱していました。
そんなときに支援の手を差し伸べたのが、ララ物資とユニセフによる支援です。
当時、大量の物資が、船舶によって、横浜港に運ばれてきました。
厚生省の調査報告書では、ララ物資による支援は、1952年までに、ミルク類,砂糖,塩,醤油,油類,缶詰類,菓子等の食料11,000トン,乳児・児童・大人用の衣料2,750トン,布団綿,原反,靴,石鹸,学用品,食器類,ハミガキ,タバコ,その他日用品,医薬品等1,750トン,山羊2,175頭,乳牛45頭などがあり、それらは、社会事業収容施設・国立病院・国立療養所・保健所・病院・大学・高等学校・小学校・引揚者・戦災者・開拓者・非常災害の罹災者・その他一般生活困窮者等に配分されたと記されています。
当時、延べ1,700万人以上の人々がこの恩恵を受けました。現在70歳以上の方々の世代に当たります。
また、ユニセフからは、1949年(昭和24年)から1964年(昭和39年)までの15年間にわたり、給食用の粉ミルク(脱脂粉乳)のほかに、衣服をつくるための綿や医療品など、当時のお金で65億円もの援助を受けています。
こうした支援により、戦後の困窮した人々の生活が支えられたこと、そして荒廃した人々の心にも希望の光が当てられたことを、私たちはきちんと知っておく必要があります。
2 日本の経済成長は途上国からの資源の輸入や労働力に頼っているという事実
ユニクロやH&Mの生産拠点が東南アジアにあることを、皆さんも何となく知っていることと思います。
縫製労働者たちは、トラックの荷台に立ち乗りして工場に向かいます。
そして、月~土曜日までフルタイムで働きます。月収は、190$です。(2021年現在)とても、十分な給料とは言えません。
ここカンボジアにも、その生産工場が各地にあります。
労働者の数は、数十万人と言われます。彼女たちの暮らしは決して楽ではありません。
皆さんも、ご自分の衣服を見るとき、ぜひこれらのことと関連付けてみてください。
ですから、私たちの生活は、こういった人々の存在によって支えられているということを忘れてはならないと思います。
現地で購入するお土産物を、しつこく値切って買い物をする人をみかけます。値切ることは、悪いことではありませんが、モノには生産者と流通業者がそれで生計を立てているという流通の原則があります。
必要以上に値切れば、彼らの生活をますます苦しめることになります。そんなことも、私たちがよく考えたいことの一つです。
3 日本と海外とでは貧困の度合いが全く異なるという事実
カンボジアの人々が一日に稼ぐ賃金は、日本で稼ぐ1時間の時間給よりも低いことをご存じですか。
下は、11歳の少年が働く様子です。学校に行かず、サトウキビの切り出しの仕事をしています。1日の賃金は、10,000リエル。約280円です。
段ボール紙で風を送って、お金を得る子供たち。自分のためではなく、家族のために稼ぐことを強いられます。
日本で、このような児童労働を見ることはありません。貧困家庭に育つ子供は、社会的に保護される仕組みが整っているからです。
ゴミ山からプラスチックごみや使えるものを集め、お金に変えて生計を立てている子どもたちも大勢います。
カンボジアには、国からの支援はありません。年金もありません。
絶対的な貧困
貧困の度合いが異次元だということもお分かりいただけるものと思います。
4 今も残る戦争の傷跡
日本は、戦後20年で奇跡的な復興を遂げました。1964年には東京オリンピックが開催され、日本の戦後は終わったとまで言われました。
しかし、カンボジアでは、今もなお戦争の傷跡が残ります。
内戦時代に国境付近に埋められた地雷。
一個20ドルほどで購入できるため、カンボジアにも大量に輸入されました。
ところで、皆さん、なぜ地雷が「非人道兵器」と言われるかご存じですか。
それは、地雷そのものが、相手を殺すことを目的としていないからです。
1個の地雷が敵兵士の足を負傷させます。すると、その負傷した兵士を運ぶために2名の兵士が抱えて歩行しなければなりません。
それにより、3名の敵兵力を減らすことができるというのです。
その被害に遭うのは、一般の人々です。カンボジアでは、こうした多くの被害者を生み出してきました。
カンボジアには、地雷処理省という政府機関があり、国を挙げて地雷処理に当たっていますが、未だに未処理の地雷が600万個埋まっているため、その道のりはたいへん険しいのが実情です。
日本の戦後にも、昭和の時代まで、不発弾が発見されたというニュースがありましたが、今では、そんな心配もなく、人々は安全に暮らせるはようになりました。
私は、海外支援の理由として、いつもこの4つを自らに問いかけています。
著者が体験した悲劇のあまりの凄惨さに言葉を失う。
過酷な環境を生き抜いた彼女が、今この国で命をつなぎ、共に生きているということ。
その平和を守れるのはほかでもない私たち自身であることを忘れてはならない。(教育評論家 尾木直樹)