現地にとって不要な支援とは?

活動レポート

良かれと思って行う支援が、現地にとっては甚だ迷惑であるケースがあります。

長いことカンボジア教育支援に携わってきて、痛切に感じるのが、押し付けの支援。

これは、「パターナリズム」と呼ばれるものから来ているマインドのように思います。

この根本概念は、「あなたのため」として、本人の自由な選択や行動を制限するものです。

例えば、医療現場では、医師が患者に対し、病状を伏せたり、一方的に治療方針を決定したりするケース。

社会や行政においては、国や地方自治体が、安全確保を名目に住民の行動を過剰に規制するケース(例: シートベルトの着用、ヘルメット着用義務、危険地域の規制)。

家族間においては、親が子どもの安全や将来を思い、本人の意思に関係なく行動を指図・制限するケース。

いずれも、本人の自己決定権(自律)を侵害し、個人の尊厳を損なう可能性があります。

カンボジア教育支援に置き換えれば、自分のやりたいことを優先する支援活動が挙げられます。

立派な施設を建てても、その後の修繕費や人件費を現地で賄えなければ、数年で廃墟化し、かえって現地の負担になることもあります。

また、突発的な支援(やらせて支援)は、子供たちの学習の継続性を損ない、教育現場を混乱させる要因にもなり得ます。

不要になった衣料品・文房具などのバラマキ支援も、厳しい見方をすれば、現地においてごみを増やすだけという結果にもなりかねません。

ただでもらえれば誰でもうれしいし、喜ばれることのように思えますが、気に入らなければすぐに捨てられる結果になりがちですし、一生涯必要なモノを大切に使うマインドが育たなくなります。

これらの多くは、被支援者側の現状を理解できていませんし、何よりも自分たちが去った後のことを想定していません。

現在、国際協力の世界では、支援者が「主役」ではなく「伴走者」であることが求められています。

支援の成否は、現地の人々が「自分たちのプロジェクトだ」と思えるかどうかにかかっています。

「何を作りたいか・やりたいか」ではなく、「現地が今、何を最も必要としているか」を深く探るプロセスが不可欠です。

いわゆる「迷惑」という感覚は、支援を受ける側の尊厳を守るために非常に重要な視点だと思います。

これまでに、日本カンボジアの共同プロジェクトで行われた教育支援の数々。

本当の意味での支援とは、「外部からの支援が不要になる状態をどう作るか」をゴールに据えるべきだと思いますが、皆さんはどう考えますか。


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