【170万人の虐殺】ポルポト政権が3年8カ月の間に行ったこと

2024年3月25日

1975年4月17日 人々は悪夢を見た

1975年4月、ベトナム軍の支持を得たポルポト軍が破竹の勢いで、首都プノンペンに迫ってきました。

ベトナムでの戦局が悪化していたアメリカ軍は、カンボジアからも撤退し始めていました。

もはやこれまでと観念したロンノル将軍は、政権を手放し、1975年4月1日ハワイへ逃亡します。

プノンペンの人々は、アメリカに勝利したという喜びと共に、クメールルージュ軍を迎え入れました。

誰もが、これで戦争のない平和なの世の中になると考えました。

そして、多くの人々が、シアヌークを中心にした以前の王政が戻ると期待したことでしょう。

ところが、ポルポト軍の行ったことは、それとは全く正反対のことだったのです。

形式的にはシアヌークを国家元首として、カンボジアに迎え入れたのですが、彼にはほとんど権限を与えられず、王宮内に幽閉されてしまったのです。

実質的に政治的な権限を握ったのは、ポルポトでした。

中国の毛沢東の改革思想を学んだポルポトは、原始共産主義という思想に基づき、これまでの社会を真っ向から否定しました。

初めにポルポト軍は、旧ロンノル軍の兵士をすべて抹殺しました。

投降した兵士

隠れている兵士

ことごとく、処刑されました。

そして、兵士ばかりではなく、軍の政権に関わっていた人々を家族共々すべて連行し、殺害しました。

 

「草を刈るなら根っこまで」

 

これが、クメールルージュの思想です。

 

体制を維持する方策を学んだポルポトは、それを自国内で徹底して実行し始めたのです。

格差のない社会
知識の必要のない社会
生活が保障される社会

 

でも、そのために国民一人一人が大きな重荷を背負わされることになりました。

失ったものが家や財産だけなら、まだしも、かけがえのない命を虫けらのように殺されていった人々が続出することになるのです。

ポルポト政権の破壊活動

また、ポルポトの思想では、貨幣経済は不要でした。

資産家が国を堕落させていると考えていたポルポトは、その大元をコントロールする国立銀行を破壊しました。

貨幣を製造する必要はない、それを管理する必要もない。

この日から、カンボジアの貨幣は紙くずとなったのです。

町中の道路には、不要となった貨幣がばらまかれていました。

これまでお金を稼ぐために働き、資産を築き上げてきた人々を嘲り笑うように・・・・。

続いて、すべての政府の機関、裁判所、学校、病院、図書館、寺院などを封鎖しました。

それらの施設は、軍によって倉庫や兵士の宿舎に使用されました。

塗りつぶされた交通標識。これまでの規則を否定するという思想の表れです。

通りの名前も塗りつぶされています。

この3日間で、敵とみなされた人々はポルポト軍兵士たちに連行されていき、人々の目の届かないところで処刑されました。

公務員、政治家、教師、医師、僧侶、歌手、俳優、旧文化に毒された人々・・・、すべての知識人が対象でした。

隣国のベトナム人や少数民族のチャム人たちも同様です。

海外の記者を含め、滞在していた多くの外国人も連行されたまま戻ってはきませんでした。

危険を察知した人々は、国際的に治外権が認められる大使館の中に逃げ込もうとしました。

この光景は、映画「キリングフィールド」でも描かれていますね。

その後、彼らがどうなったかは知る由もありません。

クメールルージュは、

「アメリカが首都プノンペンを空爆するから、3日以内に地方へ避難してください。」

と人々に呼びかけました。

もちろん、これは口実に過ぎません。

こうして、首都プノンペンに住んでいた多くの一般人は、農村へ移動させられることとなるのです。

すべての老人、病人、子どもたちも含めて・・・。

拒んだ人々は、その場で射殺されたと言われています。

これは、私が知人から直接聞いた話です。

現在45歳の知人はこう語ります。彼女の父親は医師でしたが、周りの住民の密告により、ポルポト軍に連行され、トゥールスレンで亡くなったそうです。収容所では、自分が医師であることを認めるかという点において拷問を受けます。認めれば、家族共々皆殺しです。現在、ご本人も母親も生きているということは、父親は、拷問されても医者だとは自白しなかったのでしょう。命を懸けて、家族を守った父親の心を考えると胸が痛みます。涙なしには、聞けない話です。

このようにして、フランス統治時代に東洋の真珠といわれた首都プノンペンは、わずか3日でゴーストタウンになりました。

1975年4月17日、この日がポルポト政権下において、200~300万人の人々が虐殺された暗黒の歴史の始まり日なのです。

クメールルージュ政権発足の式典

人々が強制移動させられている中、プノンペンのスタジアム(現在のオリンピックスタジアム)では、クメールルージュの決起大会が行われていました。

手前に大勢の人々によって掲げられているのが、クメールルージュが建国した民主カンプチアの国旗です。

式典を見守るポルポト。

兵士たちの多くが少年少女でした。

同志たちと握手を交わすポルポト。

スタジアムの上から、制圧されたプノンペンの街を見渡す幹部たち。

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